ヴィクターは次の数年間、父が良いと思った教育を学校ではなく社会に出て学んだ。
彼は世界中を駆け巡り、この時期カメラ業界で修行をした。
最初はドイツ、そしてフランス、そして最後にアメリカでカメラやフィルム工場、現像室、カメラ屋など
写真の世界を理解するだけでなく、どのようにしてカメラやレンズが 作られるかを学んだ。
ビクターの父は彼に幅広い教育を受けさせたくて、また、家業を継げるような教育を受けてもらいたかった。
世界はビクターの個人研究と 開発ラボとして機能した。

カメラの商売や製作を工場あるいはお店で勉強すること以外には、
自分のカメラを使って野生動物や野鳥を撮りに田舎へでかけた。
林の中で培った写真の技術と忍耐力は何も変えがたい。

同 じく貴重だったのがカメラ業界の商売の裏だった。
ハッセルブラッド家という名前のおかげで国際社会にも自由に出入りできた。
ヴィクターは家業のビジネス パートナーだったジョージ・イーストマンと友達になることができた。
イーストマンはコダックの創立者で、写真の世界では知らない者がいないくらい大物だっ た。



彼は弟子を会社の本社に置き、ロチェスターにある家にも住ませた。この友情は後年貴重なものになった。

イーストマンを通して、ビクターは腕のいい写真家たちや技術者たちと知り合うことができた。
彼は後にスウェーデンに帰国し家業を継いだが、大西洋を越えたアメリカという国に恋をした。