1940年の春、スウェーデン政府は34歳になるヴィクター・ハッセルブラッドに
発見されたドイツ製のカメラと全く同じものを作れるかどうかを尋ねた。

噂によると、彼は「いいえ、でもそれ以上のものが作れます。」と答えたそうだ。
同年4月、ヴィクターはヨーテボリの中心にある自動車修理工場のほったて小屋にカメラのワークショップを構えた。

ガラクタ置き場に近いことが幸いし、素材に困ることはなかった。
夕方には、自動車修理工場から腕のいい整備工とその弟に協力してもらって、
ヴィクターはドイツのカメラをリバースエンジニアリングし、初のハッセルブラッドカメラのHK7を設計した。
 

数ヵ月後には、会社にはまともな工場ができ、従業員も20人ほどを数え、
1941年にはRoss Incorporatedと名乗った会社はより大きな敷地に移転し、HK7の正式な生産を開始。
カメラのフォーマットは80mmフィル ムを使った7x9cmで、最初はZeiss Biotessar 、
2枚目がMeyer Tele-Megor あるいはSchneider Tele-Xenarの2枚の交換可能なレンズを装備していた。


1941年の終わりに、ヴィクターは空軍から新型カメラの受注を受けたが、
それはより大きなネガのフォーマットと飛行機に固定で搭載できるものでなくてはならなかった。

軍はHK7とその後続モデルのSKa4に大変満足していて、このモデルは後にハッセルブラッドの戦後の生産において
最も重要であることを証明する幾つかのユニークな機能が装備されていて、交換可能な巻きフィルムもそのひとつであった。
そしてその後、何種類ものカメラが続いた。

1942年にカール・エリック・ハッセルブラッドが死去し、ヴィクターが同族経営会社F.W.Hasselblad社の株のほとんどを購入した。
スウェーデン軍のためのカメラ生産も続き、1941年から45年までの間に計342台のカメラを納めた。
その間、ハッセルブラッドは軍事用カメラの生産を市販用カ メラの開発の第一歩として見ていた。
彼は従業員たちに、自分は軍事用のカメラだけを作るつもりはなく、将来的な計画を述べた。
彼は消費者市場に目を向け、 新しいタイプのカメラを考えていることを告げた。
高品質の携帯カメラ。手に収まるカメラを。そして、ヴィクターの手はすごく小さかった。


日の浅いカメラ会社はこの夢を実現するために、カメラのプロトタイプを設計および再設計し、
その間工場では繊細な時計仕掛けや腕時計を作らせた。
95,000台以上の時計仕掛けが生産された。手先の器用さを要求される仕事にとっては良いトレーニングになった。